思ったこと 〜美の術〜

日記といっても「日」の出来事を記せるか自信がないので長めのツイートといったノリで書いていこうと思う。

 

私はしがない美術大学の学生—俗に言う美大生なのだが、最近思うことがある。

「美」術、「美」大、「美」大生………

今の立場ではどうしても「美」という言葉が日常生活に付きまとう。

「美」という漢字をググると、

外形がりっぱできれい。うつくしい。

内容がりっぱ。みごと。よい。

よしとする。ほめる。よみする。

哲学で、感性と理性との調和統一に対する純粋な感情を起こすもの。

など出てくる。ルッキズムが蔓延っているこの時代で、「美」という言葉は自分にはいささか負担が大きく感じる。

そもそも美術という概念は明治時代に海外から輸入されてきたもので、それまで日本には「工芸」しかなかった。(ここら辺の話は北澤憲昭『眼の神殿』によく書いてあるので、興味あればぜひ読んでみてください)

そんな感じで、毎日校名が刻まれた壁を見ると、そっかぁ美かぁと自分でもなぜこの大学に入学したのか不思議な感覚になるのだった。

 

美というとても抽象的で主観的なものを扱う上で、こうすればいい感じになるというテンプレのようなものはやっぱりあって、そこを踏まえていかに個性を発揮できるかが鍵な気がする。個性という言葉で印象に残っているのは、入学式での学長の言葉だ。アーカイブが残っていないのであやふやだが、確か「個性とは一人で作り上げるものではなく、皆が磨いていく課程で自然に生まれてくるものだ」といった話だ。これは弊学が大学という共同体であり、「真に人間的自由に達するような美術教育」「教養を有する美術家養成」を教育理念に掲げているからだと思われる。

また一般的に美術と聞くと、「個性」「自分らしさ」が重要視されるように思われがち(岡本太郎のせいで)だが、最近は個性とは作品のスパイスのようなものだと思っている。緻密に練られたコンセプトの上に、一振りの個性、わからなさを加えることで作品が完成するような気がする。

単純明快なものは残らない。世界七不思議が現在も語り継がれているように、人間は難解で、摩訶不思議なものに惹かれ、少し見ただけでは理解できないものだけが結果的に残っていくのだ………。謎に満ちた世界……。

 

これまで長々と書いてきたが、要するに「美」の「術」はなんなんだろうという話だ。名画紹介のTwitterbotにこれ俺でも描けるwwwとリプで言われるような絵は一般的に美しいのだろうか。合田誠は?大竹伸朗は?……、、、術?作品のコンセプト?手練手管?

私は今、美術という名目の中で「守ってもらって」制作をしている。しかし、SNSを見るとその定義はあってないようなもので、「よくわからないけどなんか変」なものはアートやら芸術的やらいろいろな感想が飛び交っている。美術の枠組がただでさえ拡張しつつある現状で、私はもはやこの枠に守ってもらえるのだろうか。

(そこで重要になってくるのは美術史の系譜を意識する、ということだろう……)

 

 

ここまで書いたはいいものの、まだ知識や経験が足りなさすぎる。かなしい。

次回は直近の出来事を書いてみようと思う。ではまた。